ONE WEDDING  ONE COUNTRY

伝えるぜ!世界のWEDDING!

<< PREV | PAGE-SELECT | NEXT >>

>> EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

ヨルダンの有名宿。コーダホテル。





皆さんのワンクリックで頑張ってブログ更新しております。


1日、1クリックまで

カウントされる仕組みです。




あっ!それと何でも結構なのでコメント頂けると
テンション上がります!是非、気軽にコメント下さい♪




ブログランキング参加中♪


見たよ!!のクリックお願いします。
下記の画像をクリックして下さい♪

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓



にほんブログ村 旅行ブログ 世界一周へ
にほんブログ村






この旅を始める上で

色々とやりたい事や自分の中で

これは継続するぞ!みたいな事を

何個か決めておりまして、





その内の中に、日記を書く事が

あるんですけど、こんなにも

継続して日記を書いた事が人生で無くて、







日記を書く事で、

こんなにも頭の中が整理されたり

自分自身を振り返る時間を持つ事が

出来るんだと改めて感じました。







僕も、以前は仕事人間で20代前半の時は

長い時は、朝の7:00〜夜中の3:00とか

まで仕事をする日があったんですけど






そんな仕事ばかりの生活の中では

日記を書く事よりも1分でも多く

眠る事が優先になったりするわけで、






いまは、自由な時間があるからこそ

自分とたくさん会話をしながら

ゆっくりと世界を見て回ろうと

思っている次第です。







どうも、こんにちは。

日記を書くって素晴らしい。

サキモージョです。







さて、ヨルダンでは有名な宿がありまして

その宿って言うのがコーダホテル。

IMG_7619.jpg







そもそもこのホテルの名前は、

2004年にイラクでテロリスト集団に

殺された香田証正さんに由来します。






当時香田さんはイラクへ行く前に

アンマンのクリフホテルに滞在しており、

そこからイラクへと向かったのです。







そのとき、クリフホテルの従業員だった

サーメルさんという方が、香田さんの

イラク行きを何度も止めましたが、

香田さんの意思は固く、

頼まれたイラク行きのバスチケットを手配しました。







その後香田さんが拉致され殺されたことで、

サーメルさんは自分のせいで香田さんが

亡くなったと心を痛め、新しくホテルを

つくるときに、香田さんのことを忘れないように

ホテルの名前に「コーダ」といれたのだそうです。






現在サーメルさんは日本人女性と結婚されて、

もうここにはいません。






そのサーメルさんが以前働いていた時に

なぜこんなに旅行者に親切にしてきたのか?

理由がよく分かります。







一部、転記しますのでよかったら

読んで下さい。







----------------------------------





サーメルについて


父が話してくれたことによると、

パレスチナにいた私の祖父がヨルダンに

移ったのは1948年(第一次中東戦争)のこと。






それまではイスラエルの北部、

ハイファのソパリンという小さな町に住んでいた。

(今はソパリンという名の町はなく、別の名前になっている。)






当時、私の父は7歳、祖父の職業は不明。

イスラエル軍の攻撃から逃げ、

祖父らはアンマンに移った。そのあとイスラエルが

独立を宣言。イスラエルとヨルダンの間に、

国境を作ってしまい、祖父ファミリーは

パレスチナに戻ることが出来なくなってしまった。







本当はパレスチナは私の祖国なのに

渡航にはビザが必要なのだ。

そのときパレスチナ、ヨルダンで

親戚がいたりたまたま離れていた

家族はそのために引き離されてしまった。

私の母と母の姉がそのパターンで、

1948年当時、母の姉は14歳、母は7歳。








家族、親戚がパレスチナからでるとき、

母の姉は一人アンマン行きを拒み、

パレスチナに残った。

彼女はそのとき、パレスチナに好きな男性がいて、

彼と一緒に残るほうを選んだのだ。








真偽は不明だが、私の祖母と母が語ったことによると、

イスラエル軍の仕打ちは本当にひどいものだったそうだ。






「本当なら傷ついても死んでもパレスチナを

離れたくなかった。でもイスラエル軍は略奪、

殺人あらゆることをした。中でもひどかったのは

若い女性に対するもので、若い女性を捕まえ

裸にしてトラックに積んで、道に立たせるというもの。






レイプもあった。ムスリムの女性にとって

このような仕打ちは死ぬより辛いもの。

でも逃げることも助けることも出来なかった。

布をかけてやるだけで撃たれてしまうのだ。

ここまでされるのならもう逃げるしかない。

出て行くしかない。」







それから60年近く経つけれど、戦いは終わっていない。

2年前、パレスチナ自治区北部、

ナプレスに住む叔母に電話をかけた。

パレスチナ訪問のビザを取るために、

パレスチナ在住の人の助けが必要だったからだ。







叔母は「残念だけど手伝ってあげられない」と言った。

4年前の アルアクサ・アンティファーダ

(対イスラエルのパレスチナ人の戦い)により、

4人の息子のうち、2人が死に、2人が

投獄されているのだと言う

「いまの私の家族状況では、ビザのサポートとして

問題があるから」叔母はそう言った。

 






家族の話をしよう。父と母とは遠い親戚で、

同い年の幼なじみのようなものだった。

17歳のときに結婚、アンマンの郊外に

小さな家を建て3年後に長男ハッサンが生まれた。







父はエレクトリック(電気器具の修理が主)として

忙しく、週の1,2度しか帰ってこれないほどだった。

それでもお金はたくさん得られたので、

アンマンのダウンタウンから少し離れたところに

大きな家を買った。そこで3男、4女をもうけ、

私たちはそこで暮らした。







私は8人兄弟の4番目。長男ハッサン、次男アベット、

長女サウサン、私、妹スーハ、妹ハイファ、

妹タハニ、そして末の4男フィクリ。






その家で私は18年暮らしたが、その生活は

必ずハッピーと言うわけではなく、母は上の兄2人を

特に可愛がっており、姉のサウサン、2人の妹、

スーハ、ハイファ、そして私のことは

どうでもよかったようだ。







末の妹タハニと弟フィクリが生まれ、

やはり老いてからの子供は可愛いのか、

その2人のこともとても可愛がったが、

兄弟間で母から差別を受けることは辛いことだった。








母は衣服、身の回りの持ち物、食べ物などで

差別をした。普段から私と姉、2人の妹は

十分な食べ物を与えられなかった。

母はとにかくお金に対する執着が強く、

父がちゃんとお金を与えているにもかかわらず、

食事はごく質素で、さらに可愛がられている

兄たちの食事より、私や姉妹の食事は少なかったので

木曜日と金曜日以外はひもじい思いをした。








木曜日と金曜日は決まってご馳走だった。

父が帰ってくるからだ。

母は父に見えるところだけ、取り繕うようにお金を掛け、

私たちにもきれいな服を着せ、普段から

そうしていたかのような振りをするのだった。








楽しいはずのラマダン明けの祭りでさえも、

私にとっては辛いものだった。

父が帰ってくるのは嬉しい。しかし、

ラマダン明けの祭りの数日間はたくさんの

食べ物をそれこそ食べきれないほど用意しなくては

ならなかったので、お金を使いたくない母としては

相当めんどうで、いやだったらしい。








母は本当に些細なことであるときは、

理由もなく私や姉妹を罵り、棒でぶった。

もちろんそれは、父のいないところでだったが。







私が12歳になる頃には父と母との間に

言い争いが絶えなくなった。私や姉妹は

学校が大好きだった。学校にいれば友達もいるし、

大好きな勉強も出来る。

なにより母に辛く当たられることもないし。

父や母が言い争うのも、見ないですむ。

家に帰りたくなくて、私たちはよく家出をした。








「もう帰らないからね」という私たちを、

母は止めなかった。しかし行く当てもなく、

いつも警察に保護されてしまい、

そんな私たちを迎えに来るのはいつも父の役目で、

父のいないときには兄が渋々くる、

といった感じだった。






母が私たちを迎えに来たことは1度もなかった。








そんな中、母の妹が私たちのことを庇い、

たまにではあるが、家出をすれば少しの間、

泊めてくれたり食べものを与えてくれた。

彼女は私たち兄弟8人を分け隔てなく、

可愛がってくれた。







父や親戚はたまに、おみやげを買ってきてくれたが、

私や妹の手に渡ることはまれだったし、

母は父がくれた1JDのこづかいさえも取り上げた。

ある日父は、私にと腕時計を買ってきてくれた。

私はとても嬉しかったが、父が出かけた途端、

母はそれを私から取り上げてしまった。

きっと母はその時計を兄にやってしまったのだと思う。









ある日、母からの仕打ちに堪りかねた妹スーハは、母が

普段、自分たちに少ししか食べさせてくれないことや、

私たちに対する暴言、兄たちとの差別、いままでの

仕打ちを手紙に綴り、父の鞄にそっと忍ばせたが、

それを見た父は「この手紙に書いてあることは本当か?」

と母に見せてしまい、さらに母の怒りを買い、

母は私たちをより一層、憎むようになってしまった。










手紙について母は父に、

「あなたに家にいて欲しくて言った嘘だ」

とうまく言いくるめられ、信じてもらえなかった。

私たちは父が別の仕事についてくれることを願った








「お父さんが仕事をかえて、

毎日いえに帰ってきてくれたらいい。

そうしたら毎日ご飯を食べられるし、

母さんも私たちをいじめない。

早く大きくなって、結婚してしまいたい。

そしたらこの家を出て行ける」。








その言葉通り、2人の妹、ハイファとスーハは

エジプト人と結婚し、いまはエジプトに住んでいる。

姉サウサンはヨルダン人と結婚したものの、

わずか1ヶ月で結婚生活は破たんした。

姉サウサンと妹ハイファは父が決めた男性と結婚したが、

スーハは自分で結婚相手を決めたため、

父の怒りは大変なものだった(いまは許している)。
 







15歳で学校を卒業してから、

3年間、職を転々としながら働いた。

車の修理工場、プラスチック工場、靴の修理屋・・・

仕事はとてもハードで賃金は低かった。

しかし母は給料のほぼ全てを渡すよう要求し、

私のところには毎月、5JDくらしか残らなかった。








交通事故で右足で怪我をしてしまって、

1年間働けなかったときもある。

そんなときでさえ、母は何もしてくれなかった。

母との良い思い出はそういえば1つも思い出せない。









友達を家に連れてきて遊ぶということも、

兄には許されていても、私たちには許されていなかった。

大家族の中にありながら、私も姉も妹も孤独だった。
 








父との思い出は、父はとても明るく社交的で、

母とは対極の人だった。よく家にたくさんの人を招いて、

パーティーをして、それは楽しかった。

忙しい中、休みの日には父は私たちを

紅海やヨルダンバレーに旅行に連れて行ってくれた。








母はけっして行かなかったし、母が止めたのか

兄もあまり行かなかったが、私や妹は

父と出かけるのが大好きだった。本当に楽しかった。

父はずいぶんあとになって、母が私たちにしたことを

知ったらしい。

「あのとき助けてやれなくて気づいてやれなくて、

 すまない」

父は私たちにそう詫びた。







19歳のときにクリフホテルで働いていた知人が

「おまえもここで働かないか」と誘ってくれて、

私はこのホテルで働くことにした。








給料は良くないけれど、母のいる家に

帰らなくていいし、

事故で悪くしてしまった右足のせいで

他の職業にはなかなか就けなかったからだ。









 
クリフホテルに来て4年ほど経ったころ、

私は精神的に不安定になっていた。

アンマン、この大都会で、独りぼっちになった気がした。

友人も本当に心を許せるものはおらず、母の家には帰れない。

父にも妹にも会えない・・・。







そんな中、ある日、私はなんの薬だか分からないが、

とにかく一気に大量にその薬をのんだ。

「薬をたくさんのんだら死ねるかもしれない・・・。」

そう思ったのだ。しかし、薬をのんでも、

気分が悪くなり、意識が朦朧とするだけで

まったく死ねそうになかった

(胃薬だったのかな)。そんなことを何度か繰り返し、

私は自分自身を傷つけてばかりいた。









「私が死んでも、だれも悲しみはしない・・・。」

そう思っていた。アンマンは本当に都会だ。

こんなにたくさんの人がいるのに、ここでも

やっぱり私は孤独だった。そんなときが何年か続いた。








クリフホテルには、あらゆる国から旅人がやってきた。

フランス、ベルギー、アメリカ、カナダ・・・

冷たい人もいたし、優しい人もいた。

もちろん旅人からしたら、アンマンなど

旅の中継点でしかないだろう。








でもそんな中に私は温かい心があるのを感じた。

通り過ぎたあとには、忘れていくだけのはずの

この宿に私宛に「元気?」「ヨルダン楽しかったよ」

と葉書や手紙を寄越す旅人がいた。

礼儀正しく、優しく、明るい。







振り返ってみると私に優しい言葉を掛けてくれたり、

微笑んでくれていたのは遠い東の小さな国からの

旅人たちだった。私たちアラブ人と同じ

黒い瞳を持つ日本人。








私は彼らといて“ああ家族みたいだ”と思った。

なぜだか分からないけれど、不思議と日本人の

旅人とは心から打ち解けあえたのだ。

フランス人やイギリス人はここを離れると

ぷっつりと連絡が途絶えてしまう。








でも日本人の多くがこの宿を離れる前に、

ノートに思い出や“ありがとう”の言葉を残してくれた

(情報ノートのこと?)。離れても忘れない、

遠くても思い出す。やっぱり私はこれは

「家族のようだ」と思わずにはいられない。

私のために泣く人もいた。私のために怒る人もいた。

私のために必死になる人もいた。









皆、「サーメルはどうしてそんなに優しいの」

と言うけど、私にとってもそれは同じ。

知り合って間もない私に、こんなに良くしてくれて、

こんなに思ってくれるのだから。









私もわたしの出来ることを大切な

ファミリーにしてあげたい。私には帰る家もないし、

家族もバラバラになってしまったけれど、

私はここで自分の場所と血のつながらない兄を、

姉を、弟を、妹をたくさん得ることが出来たから。











だから私は今とてもしあわせだよ。

だってすごいBig Familyだよ。今日もどこかから、

わたしの兄弟がここにやってくる。

私はそれがとても嬉しい。









 
長旅に疲れて、やっと家にたどり着いた、

弟、妹にソファーで休むように促し、

ご飯を食べさせたり、お茶やコーヒーを

入れることはごく自然なこと。








私はだれもが家族に対し、当然することを

やっているだけだ。君たちが旅を終えて、

日本に帰ったとき、君の父や母は

どうやって君を迎えるだろう。

姉や兄、妹たちは久々に帰ってきた君のために

何をするだろう。









私はいつもそんな気持ちで、今日も重い荷物を背負い、

不安げな表情で「今日、部屋はありますか?」

とクリフホテルの扉を日本人を待っている

(日本食は出してあげられないけどね)。








荷物を降ろし、ソファーに掛けて、

熱いネスカフェのカップを手に、

君たちがホッとした表情をするのを見ると、

こっちまでホッとする。







「おかえり、ようこそクリフホテルへ」。

そしてクリフホテルで休んで、地図を見て、

また元気に旅立っていく、私の弟、妹たちよ。

どうか無事、旅を終えて日本に帰って欲しい。









そして私のことも思い出して。

いつかきっとまたヨルダンにもきて欲しい。

いつでも帰ってきていいよ。

ここは君の家でもあるのだから。




----------------------------------




素晴らしい人は、世界にたくさんいる。

そして、その人が居なくなれば

また新しくそのDNAを受け継いだ人が

現れる。




現在はサーメルさんの

後輩のルアイさんがとても親切な

名物スタッフとして働いています。

人によっては、「ルアイは中東一のナイスガイ」

というほど、彼もいい男です。

IMG_8168.jpg







是非、アンマンに訪れた際は

寄ってみてはいかがでしょう。









おしまい。






・可愛い瓶の形だった。

IMG_7742.jpg









・民家の屋根にもアート心が。

IMG_7621.jpg









・これってなんの標識だろうか。。。

IMG_7749.jpg








皆さんのワンクリックで頑張ってブログ更新しております。


1日、1クリックまで

カウントされる仕組みです。




あっ!それと何でも結構なのでコメント頂けると
テンション上がります!是非、気軽にコメント下さい♪




ブログランキング参加中♪


見たよ!!のクリックお願いします。
下記の画像をクリックして下さい♪

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓



にほんブログ村 旅行ブログ 世界一周へ
にほんブログ村






スポンサーサイト

| ヨルダン | 10:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

どうも〜さとぅ〜といいます!
今世界一周旅行中(始めたばっかですがw)で
二週間後にヨルダンに行く予定です!

ブログを読んで感動しました。
ぜひぜひコーダホテルを訪れてみますね^^

| さとぅ〜 | 2012/10/10 18:33 | URL |

めっちゃ泣けますね…。感動!
そして読み終わって温かい気持ちになりました☆
ほんまステキな宿見つけはりましたね(^^)私もいつかヨルダン訪れる際は絶対泊まります!
しかし満喫してますねぇ♪

| えみ@Babaで | 2012/10/10 18:53 | URL | >> EDIT

Re: タイトルなし

さとぅ〜さん

初めまして、2週間後にヨルダンなんですね。
では、是非ともコーダホテルへ。
ちなみに、コーダホテルと言ってもヨルダン人は
分からないので行く時はマンスールホテルへ
行きたい旨を伝えて下さいね。

ここのルワイさんが最高にいいやつなので訪れた際は
keita(keitaは僕です。笑)がよろしく言っていたとお伝え下さい!

コメントありがとうございます。

| サキモージョ ケイチョフ | 2012/10/11 01:52 | URL |

Re: タイトルなし

えみ
めっちゃ泣けるでしょ!この話。
こういう想いで仕事をする人がもっと
増えればもっと、もっと素敵な世の中に
なると思うのにね。

ヨルダンは是非とも。
人生は楽しんだもん勝ちでしょ(笑)

コメントありがとうね。

| サキモージョ ケイチョフ | 2012/10/11 01:54 | URL |















非公開コメント:

TRACKBACK URL

http://k19840214.blog.fc2.com/tb.php/131-6f850dbf

TRACKBACK

<< PREV | PAGE-SELECT | NEXT >>

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。